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   包丁依存症(小説)

 音は言葉よりも多くを語る。
 忙しい足音は焦りを、ドアを強く閉める音は苛立ちを、正直に伝えてくる。
 ソファーにぼんやり座りながら、僕は台所から聞こえる音に耳を澄ませた。蛇口を閉める音、まな板に野菜を置く音。どれも落ち着いている。包丁の刻むリズムも心地良い。どうやら優子の機嫌は直ったらしい。
 
 三日目、優子は包丁を首に当てて「もう死ぬ」と言った。原因は僕の浮気がバレたことだ。スマホのメッセージ画面を覗き見され、こちらが怒る暇もなく泣かれた。優子は拳で床を、壁を、自分を殴った。
「ごめん。二度としないから」
 僕を殴ればいいのにと思いつつ、僕は頭を下げた。だけど彼女はひたすら泣き叫び、ついには自分の首に包丁を当てた。
 きっと本気ではなかったのだろう。けれどその時は怖くて、僕は土下座して詫びた。頭の上から聞こえてくる優子の吐息が、少しずつ静まっていくのを感じた。
「約束ね」
 彼女の言葉に、僕は頭を上げた。優子は包丁を持ったまま僕を見下ろしていた。そうして歯を見せて笑った。

「今日はニンジンが安かった」
 台所から優子の弾んだ声が聞こえた。なるほど、ニンジンを切っていたのか。道理で包丁の音がサクサクと小気味いい。
「今日は何?」
「サラダとカレイのムニエルと、あとお味噌汁」
「魚?」
 僕は冗談のつもりで、「肉が良かったな」といじけるように言った。途端に包丁を叩きつける音が部屋中に響いた。切りかけのニンジンが床に落ち、生首みたいに転がった。
「いちおう栄養も考えてるから。ごめんね」
 そう言って優子は僕に笑顔を向けた。
「そっか。こっちこそごめん」
 僕も笑いながら返した。包丁をなるべく見ないようにしながら。
「明日はお肉にするね」
 彼女はニンジンを拾い、また包丁の音を立て始めた。リズムがさっきよりも荒い。
「肉が安い時でいいよ」
「豚肉ならいつでも安いから」
 気休めみたいな会話を切り刻むように、包丁は休みなく荒い音を立てる。言葉と音、どちらが本音かは言うまでもない。
 僕は黙って天井を見上げ、音に耳を傾けていた。愚痴を聞かされているような気分だった。

 優子とは知人の紹介で出会った。「丁寧で明るい人」、それが優子への第一印象だった。お手本みたいな笑顔を浮かべ、どこからか拾ってきたような話題をふる。百貨店のサービスセンターに勤めていると聞いて、妙に納得したものだ。
 だが僕が見たかったのは優子の笑顔で、聞きたかったのは優子の話だ。僕は事あるごとに、言いたいことがあったら言ってほしいと伝えた。
「食べたいものがあったら言ってね」
「どこか行きたいとこある?」
 しかし僕がどんなに工夫を凝らしても、彼女は自分の希望を言わなかった。そして僕が決めたことに一度も文句を言わなかった。
 それなのに彼女はいつも楽しそうだった。強張った笑顔は次第にほぐれていき、彼女自身の話をするようにもなった。子供の頃は隅で本を読んでいるような子だったこと。今では本よりも映画の方が好きなこと。実家で犬を飼っていること。どれも事実なのだろう。
 けれど聞きたいのは今の優子のことだ。僕は優子に「一緒に暮らそう」と言った。「そうだね」と彼女は笑った。その笑顔の奥にある気持ちをいつかは話してくれるだろうと、僕は信じていた。
 
 この日僕は残業で午後九時に帰宅した。「おかえり」と優子がキッチンから笑顔を向けた。
 玉ねぎを切っているらしい。刃がまな板をリズミカルに叩く音が規則的に聞こえてくる。それが僕に対する何かしらの気持ちを表す音なのか、それともただ玉ねぎを切る音なのかは分からない。本人に聞いても同じだろう。
 僕はソファーに腰かけ、スマホをいじっていた。すると優子が猫なで声でこう尋ねてきた。
「今日はなにかいいことあった?」
 優しい声だった。後ろ姿からでは表情は分からないが、包丁の音に乱れはない。
「別に? 何もなかったけど」
「そうなの? 私の勘違いかな」
 淡々と投げかけられる優子の言葉と音。僕は努めて平静を装い、「そうじゃない?」と言った。
「新しい友達でもできたかと思った」
「なんで?」
「ニヤニヤしながらスマホ見てるから」
「ゲームの話してるだけだよ」
「誰と?」
 包丁の音がやんだ。
 冷え切った静寂が部屋中に行き渡り、僕は全身から優子の疑いを感じ取った。
「雄二だよ。知ってるだろ」
「ああ、雄二君か。ゲーム好きだもんね」
「そうそう。あいつ今オフラインイベント行っててさ。会社休んで」
「へえ、そうなんだ」
 明るい声とは裏腹に固まった後ろ姿と、包丁を握ったままの拳。優子はまだ何も納得していない。
 僕はダメ押しのつもりで、おどけるように言った。
「馬鹿だよね。あいつ俺も誘ってきたんだよ。おかしいだろ?」
「誘われた? 今日帰りが遅かったのって、もしかしてそういうこと?」
 優子が体をこちらに向けた。包丁の刃先もこちらを向いた。
「違う! 行けるわけないだろ。冗談だよ。雄二は馬鹿だなって笑ってほしかっただけだよ」
「そっか。そうだよね。私ったら考えすぎだね」
 ぱっと笑顔になり、優子はけたけたと笑った。包丁はまだこちらを向いていた。そして彼女が身をひるがえすと、包丁もあちらを向いた。まるで優子の体の一部みたいに。
 玉ねぎを切る音がまた聞こえてきた。
 さっきまでとは何が違う? 重さは? 早さは? リズムは? 彼女は何を伝えようとしている?
 優子の機嫌をとるように、僕は身じろぎ一つせず耳を澄ませていた。そのうちに、だんだん自分が馬鹿みたいに思えてきた。僕は何をこんなに怯えているのだろう。

 仕事終わりに僕は百貨店に寄り、キッチンコーナーを見て回った。長さも大きさも違う包丁がたくさん並んでいた。
 どれがどんな音を立てるのだろう。僕に合う音はあるだろうか。強すぎず、けれどはっきり言い返せるような音を立てるのはどんな包丁だろう。
 果物ナイフからはうるさい小言が聞こえてきそうで頼りない。出刃包丁は今にも怒鳴り声を上げそうだ。淡々と相手をたしなめられる包丁はないものか。
 探していると、鍋売り場の方から男女の話し声が聞こえてきた。夫婦なのだろう、言葉遣いにためらいがない。どうやら土鍋を選んでいるらしい。
「高いのは要らないわよ。どうせあんまり使わないんだから」
「買うなら良いのを買った方がいいんだよ。そしたら何回も使いたくなるだろ?」
「簡単に言うけど。手入れ大変なんだよ?」
「ほら見て。『軽くて洗いやすい』って書いてある。これにしよう」
 音のない会話は間延びしていて、まるで国会答弁のようだった。
『私は買いたくない』
『俺は買いたい』
 ただそれだけの気持ちを伝えればいいのに、どうして言葉で探り合うのだろう。やはり鍋には包丁のような繊細さがないからか。
 僕はステンレスの三徳包丁を買った。どこにでもあるような見た目と、光沢の少ない刃が手ごろだと思えたからだ。
 
 金曜日の夜、今度は優子の方が遅く帰ってきた。
「今日は野菜がめっちゃ安くてさ」
 一杯に膨らんだ買い物袋を両手に持ち、優子は僕に笑いかけた。
「それにしても買いすぎだろう」
 言いながら、僕は心当たりを探した。よほど時間をかけて伝えたいことがあるのだろうか。持ち手から溢れたナスが、早く語らせろと訴えかけてくる。
 それでも僕には余裕があった。何しろ今はこちらにも伝える手段があるのだから。まな板も野菜もないが、包丁さえあれば十分だ。背でテーブルの角でも叩けばいい。音楽を奏でるように、まっすぐな気持ちを乗せて。
「明日からお肉が安いんだって。一緒に買いに行こうか」
 優子はそう言って野菜を冷蔵庫に入れ始めた。予想外だった。今日全部切るのだとばかり思っていたのに。しかし、あえて一度見えなくしただけかもしれない。彼女の思惑は包丁を通してでないと分からない。
「そうだね、買いに行こう」
 上辺だけの言葉を並べて、僕は足元の鞄に目をやった。中には刃をむき出しにした僕の包丁が入っている。
 ナスとピーマンと玉ねぎを両手に抱えて、優子は台所に立った。そうして包丁を鳴らし始めた。調子に乱れはなく、穏やかだ。やはり僕の考えすぎだったのか。
「できるだけ休みの日は一緒にいたいよね」
「そうだね」
「一人だとつまんないし寂しい。特に日曜日は」
「そうだね」
 包丁の音が次第に強くなってきた。僕が他の娘と会っていたのは日曜日、百貨店のイベントに優子が出ている時だった。まだ浮気のことを根に持っているらしい。
 優子は言葉を続けた。
「別に誰かと会う用事もないしね。土曜も、日曜も」
「全然ないね」
「なんなら家から一歩も出なくてもいいよね。日曜は特に」
「それもそうだ。日曜はずっと二人で家にいよう」
 優子の言葉と音を、僕は飄々とかわし続けた。包丁の音はどんどん大きくなり、まな板というより台所を打ちつける音が部屋中に響き渡る。叫び声なんかよりずっと耳障りだ。それに一方的すぎる。だんだん腹が立ってきた。
 僕は包丁を取り出し、軽く机を叩いてみた。控えめだが鋭い、咳払いみたいな音がした。
 優子は一度びくっと身を震わせたが、すぐにあちらを向いたまま歌うように言った。
「彼氏が優しい人でほんとに幸せ。出会えてよかったなぁ」
 僕はドラムでも叩くようにリズムを取りながら、「俺もそうだよ」と返した。
「心から分かり合える相手ってなかなかいないからね」
「そうだね。絶対いない。どこにもいない」
 包丁のリズムに合わせる優子。もうまな板に野菜があるのかも分からない。あるならとっくに切り刻まれているだろう。僕は台所に背を向け、大声で歌った。
「幸せ。幸せ。本音をぶつけ合う幸せ」
 思いのたけをぶつける高揚感に駆られ、僕はひたすら包丁を打ち鳴らした。机にみるみる傷が刻まれていく。
「そうだね。幸せ」
 優子の声が小さくなった。包丁の音も。
「どうしたどうした? 言いたいことがあるなら言ってみろ。ほら言ってみろ」
 ひときわ鋭い音が部屋を揺らした。まな板を叩くのでなく、突き刺す音だ。続いてまな板を手で押さえつける音。包丁をまな板から引き抜く音。見なくても全部分かる。どれも今の優子そのものを表す音だ。
 優子の足音が近づいてきた。静かに、慎重に。
 僕は優子に包丁を突きつけた。優子も僕に包丁を突きつけた。互いの胸の手前で、刃先がそれぞれの光を放った。水気を帯びた優子の包丁。真新しい僕の包丁。それぞれの心をそのまま取り出したかのようだ。
「何してるの?」
「そっちこそ」
 僕らは笑い合った。そうしてしばらくの間、黙って笑顔と包丁を向け合った。あからさまな作り笑いとむき出しの包丁、これ以上人間らしい会話があるだろうか。
「なんでこんなことするの?」
 やがて優子が言った。今までに聞いたことがないような、しおれた声で。
 だがその手には乗らない。僕はまだ優子のしおれた音を聞いていない。
「優子が先にしてきたからだよ。俺だって我慢してきたんだよ? でも何事にも限界はあるよね?」
 僕は我を忘れ、甲高く叫んだ。
「自由に話せない。話してもくれない。言いたいことがあったら言えって、俺何回も言ったよね? なのに何にも喋ってくれないで。俺がどんな気持ちだったか分かってる?」
 自分は何を言っているのだろう。まるで包丁に本心を引きずり出されているようだった。優子の心臓めがけて、これまでため込んできた本心を。
 優子の包丁が下がり、床に落ちた。ごとりと鈍い音がした。お世辞にも可愛い音とは言えなかったが、それが優子のしおれた音だと僕には感じられた。
 優子は黙って立っていた。うつろな目は何を見ているか分からず、濡れてもいない。ただ空っぽで、寂しそうだった。瞳に映る僕もきっと同じ目をしている。
 僕も包丁を下ろし、テーブルに置いた。ごとりと申し訳なさそうな音がした。


 何もない日曜日の夜。
 音は絶え間なく聞こえてくる。エアコンの力強い駆動音、外を走る車の勇ましいエンジン音。
 室内からは軽やかな足音、流麗な水音。そして楽しげにリズムを刻む包丁の音。
「今日は何?」
 台所に立つ優子に、僕は声をかけた。優子はこちらを振り返り、指を立てて数えながら言った。
「サラダと、サバの塩焼き。あとお吸い物」
「肉が良かったな」
「文句言わないの。明日はハンバーグにしてあげるからね」
 子供をあやすように言って、優子はあちらを向いた。前よりずっと楽しそうだ。顔を見なくても笑っているのが分かる。
 僕はゆったりソファーにもたれ、包丁の音を聞いていた。ただ丁寧に野菜が切られていく音にきっと意味なんかない。何が聞こえるかでなく、こちらがどう聞くかだ。ゆったりとした時の流れを、包丁は秒針のように刻んでいく。
 そういえば最近は優子に家事を任せっきりだった。前は自分も野菜を切ったり、みそ汁を作ったりしていたことを思い出し、僕は立ち上がった。そうして優子と並んだ。
「手伝うよ」
「ありがとう。じゃあサバに塩ふっといて」
「了解」
 包丁のリズムは変わらない。ありがとうは音よりも言葉の方がずっといい。僕はサバのパックを開け、塩をふった。
「ちょっと、多すぎ!」
 急に優子が声を荒げた。僕は彼女を睨んだ。どうしていきなり怒鳴るのだろう。それに人に任せたことに文句をつけるのも失礼だ。
「そんなに怒ることないだろ?」
「いいから水で洗い流して。そもそもなんで最初に切れ目入れないの?」
「うるせえな」
 僕は吐き捨てるように言った。それきり僕らは黙った。そしてどちらから言い出すでもなく、互いの包丁を取り出した。
 優子はシンクの下に、僕は本棚の奥に、語るための包丁を置いてある。
「ごめんごめん。このくらいでいいかな?」
 僕は右手で塩コショウをふりつつ、左手の包丁の先を優子に向けた。
「うん、大丈夫。こっちこそごめんね」
 優子は右手の包丁を野菜にニンジンに刺したまま、左手の包丁をこちらに向けた。まだお互いに苛立っているようだ。しかし互いに仲直りを望んでいることは分かっている。
 サバに火を通していると、優子が「見せて」と甘えるようにフライパンを覗いてきた。包丁は床の方を向いている。
「いい感じ。さすが」
「でしょ?」
 僕は包丁を優子から遠ざけつつ言った。優子を傷つけないように、けれど見えなくはならないように。
 出来上がる頃には僕らは包丁を手放し、テーブルの上に置いていた。
「いただきます」
 僕らは声を揃えて笑い合った。互いに相手の包丁は見ず、そこにないふりをした。
 喧嘩をした時、僕らはこうやって本音を伝え合う。刃の向きや距離で敵意や好意を伝え合う。そうして仲直りできたらまた包丁をしまう。
 食事を終え、ソファーでくつろいでいると優子が隣に座ってきた。包丁はもうどこにも見えない。彼女はこちらに身をすり寄せ、「さっきはごめんね」と上目遣いに僕を見た。
「俺の方こそ。優子はちゃんと体のこと考えてくれてるんだよね」
「うん」
 しおらしく頷く優子の肩を、僕は左手で抱いた。こちらの右手にはまだ包丁があるが、刃はソファーの裏に隠れていて見えない。
 もうしばらくしたら僕も包丁をしまうだろう。優子もそれを信じてくれているから隣にいるに違いない。包丁は僕らの信頼関係まで映し出す。
「幸せだね」
 優子がささやいた。
「うん。幸せ」
 僕は頷いて優子に頬を寄せた。音のしない部屋。包丁の刃先が鋭く光る夜。僕はこれを決して優子に刺すことはない。優子も同じだ。その気になればいつでも刺せるのに、刺さない。刺されない。目の前の包丁に怯えずに暮らす、その安心感がどうしようもなく心地良い。

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